室町時代の能役者であり、能作者でもあった世阿弥元清。彼はまた理論家、演出家、作曲家としても活躍した人物です。父、観阿弥(かんなみ)とともに日本の文化に、新たに、長い生命をもっ演劇、現代まで演じ続けられる能の基礎をつくった大芸術家です。
幼いころから、猿楽(=能楽の源流にある技芸で、ものまね、曲芸を主とする雑芸) 能の名手であった、父観阿弥清次の稽古指導を受け、その少年可憐な舞台姿が各地で好評を博していました。一三七四年、十二歳のころには、当時の将軍足利義満の心をとらえ、以後、厚い保護と厳しい指導を受け、気品の高い猿楽能をつくり、「能」を芸術的に大成させました。
また世阿城山は、能楽の才能だけでなく、連歌や鞠などにも非凡な才能をもち、美少年であったと伝わっています。将軍だけでなく当時、最高の文化人といわれた二条良基の影響も受け、貴族文化と直接、接していきます。父、観阿弥は、物まね主体の大和猿楽に、曲舞(=宴曲に白拍子舞をつけたもの)をとり入れ、幽玄をめざしました。世阿弥は、そこからさらに、連歌の世界にある花鳥風月をとり入れ、貴族文化ととけ合った幽玄能をめざしていきます。また当時の民間演芸を広く見わたし、「平家物語」にも注目していました。
世阿弥といえば「舞歌二道」。演劇的、舞踊的要素に、音楽的な要素を融合させ、上品な優雅さを追求しました。基本の考え方は、気品の表現である「老体」、美そのもの結品である「女体」、それに動きのおもしろさの「軍体」の三体としました。
二十二歳のときには、父、観阿弥を亡くし、つらい時期をすごしますが、すぐに観世太夫( 座頭) となり精進を続けます。前後して十九歳のときには、南阿弥という理解者をなくしています。世阿弥の書いた『花伝書』にも、十七、八歳から二十二、三歳の間は、芸修業では、もっとも苦しいとされていますが、この時期に大きな指導者をなくしたことになります。
世阿弥がその天分をいかんなく発揮できたのは、足利義満、義持在世のころでした。けれども、義教が将軍になる(一四二九年、世阿弥六十三歳) と、環境は一変します。義教は世阿弥のおいの音阿弥をひいきにし、世阿弥一座は、事ごと に弾圧されるようになります。次男元能は出家、長男元雅は、四十歳に満たず、客死。自身は七十二歳で、理由は不明とされる佐渡流島と、晩年は不遇であったといえるでしょう。没年は八十一歳でした。
幽玄の美意識、亡霊や神や鬼の登場、死後の世界から人生そのものを見ょうとした「夢幻能」と呼ばれる新境地の開拓をした世阿弥。能楽作品ばかりではなく芸ふえさ術論、不易の精神など、今も脈々と続いている「能」の世界は、世阿弥なくしてはありえないことです。
【世阿弥元清 ぜあみもときよ】 一三六三~一四四三年
本名結崎(ゆうざき)元清。観阿弥の長男、法号世阿弥善芳(ぜんぼう)。別号、貫翁(かんのう)、至翁(しおう)。有名な「初心忘るべからず」という教訓は、『花伝書』に説かれ『花鏡』に詳しく書かれている。「初心」というのは、単純な初学期ではなく「是非の初心忘るべからず、時々の初心怠るべからず、老後の初心忘るべからず」としている。一つは初学期の欠点をよく自覚すること、二は各時期ごとの芸の体得の初心、三は年功に頼らず、老年期独自の初心による芸の工夫をすすめている。