「仁義道徳と金儲けとが違背するとは思わぬ」という言葉を残した渋沢栄一。日本資本主義の父といわれる明治の実業家です。
アメリカの経営学者でニューヨーク大学教慢も務めたピーター・ドラツガーは、明治に活躍した日本人三人について、こんな言葉を残しています。「明治の日本には三人の重要な人物がいた。福沢諭吉、渋沢栄一、そして岩崎弥太郎である。かれらは個人としては、まったく異なっていた。福沢は実務家、渋沢は倫理家、岩崎は起業家だった。だが、同じ目標と未来像を描き、勇気と先見性と手腕をもって近代国家、日本をつくったのである。今日、三人の偉業が意味するところは大きい」。
渋沢栄一は、日本を近代資本主義国家に導きました。明治になると、大蔵省に入省しましたが、下野しています。『論語』の精神を重んじ、「道徳経済合一説」を唱え、各種産業の育成と、五百社以上の近代企業の確立に努めました。
渋沢は、一八四〇年、農工商業兼営の富家の長男として生まれています。幕末、一時尊王撰夷運動の志士でした。けれども、二十四歳のころ、一橋家に仕え、慶喜が将軍になると、幕臣になっています。
その三年後、ヨーロッパに渡っています。資本主義的企業を見聞します。このとき得た産業、商業、金融に対する知識は後年の活動に生かされています。明治一年に帰国し、日本最初の合本組織(株式会社)である商法会所を設立しています。
翌年には新政府の招きで、大蔵省官吏に受用され、貨幣、金融財政制度の制定、改革に力をつくしました。四年間大蔵省で活躍し、退官、第一国立銀行( 第一銀行の前身、現在のみずほ銀行) を創立します。以後、王子製紙、大阪紡績、東京海上、日本鉄道の創立に関与しています。
五百もの企業の設立に関与できたのは、企業が立ち上がると、後進にあけわたしたからだと伝わっています。このとき後進には、企業経営の基準は、『論語』に照らしてつくるよう、指導し、また判断にまよえば、『論語』の物差しに照らして、決断するように指導したといいます。実業家は、国家目的に寄与するビジネスマンでなければならないという経済道徳合一説を強調しました。財界の思想的指導者であったのです。
また財界の組織化にも傾注しました。東京商法会議所( 東京商工会議所の前身)、東京銀行集会所、東京手形交換所の設立などにも取り組みました。
激化する労使関係については、協調主義をとり、大正時代には、財団法人協調会の設立準備に加わっています。
実業界から完全に引退したのが七十七歳。晩年は社会事業に力を注ぎました。生活困窮者を救う「救護法」の制定、長らく養育院の院長をつとめたり、孤児院や精神薄弱児施設などの設立、運営にかかわっています。教育では、日本女子大学校( のちの日本女子大学) の創立委員をつとめたり、東京商法講習所( 東京高等商業学校に発展、のちに一橋大学) の経営にもたずさわりました。九十二歳でなくなるまで、社会、文化、教育事業に力を注いだのです。
慈善を慈善として行うのは真の慈善家に非ず、余はこれを楽しみとするよろこびをもって生きた人でした。