紫式部といえば、『源氏物語』を著した平安時代を代表する女流作家です。彼女は幼少時より聡明で、こんな有名な話も残っています。父の藤原為時が紫式部の兄の藤原惟規に史記を教えていたときの話です。そばで聞いていた紫式部の方が、兄の惟規よりも先に党えてしまい、「子が男子だったら、将来りっぱな学者になっただろうに」(=口惜しう男子にでもたらぬこそ幸なかりけれ『紫式部日記』) と父を残念がらせたと伝わっています。
母を早く失い、父の兄で育ち、その父から感化を受け、漢籍に親しんで、すぐれた素質を示していました。 家に伝わる歌書や物語を子当たり次第、読みあさったり、筆の演奏も相当の腕前になっていました。
式部の父. 藤原為時は文人としてまた学者として名を知られていましたが、官職には恵まれていなかったようです。花山天皇の退位( 九八六年) とともに職を失う父のそばで、娘ざかりを迎えたようです。この時代の女性をとおしていえることですが、一流の文学者であった紫式部でさえ、本当の名前や生没年ははっきりしていません。九七〇年、九七二年、九七八年と生年も諸説あります。九七三年であれば、父が官位を失ったとき十三歳ということになります。
九九六年、国守として越前ヘ向かう父為時に同行、一、二年間をすごすことになります。九九六年には白身も晩婚でしたが、親子ほど年の違う藤原宣孝と結婚 します。一女、賢子を産みますが、この結婚も長く続かず、一〇〇一年には夫宣孝が他界し、式部は年若くして、寡姉として生きることになります。式部の悲しみは探く、ときには絶望も味わったと想像されます。
一〇〇七年ころより、一条天皇の中宮上東門院に仕えています。この出仕は苦悩のなかから、痛切に女性というものの不幸をちえ、人間のありのままを揃き山した『源氏物語』が評判になって、ときの権力者、藤原道長に推奨されたという説が残っています。けれども、この宮仕えが終わってからも、なおも源氏物話は書き続けられたとみる学者も少なくありません。紫式部は四十代で没したようです。
繁式部といえば宮中でのライバルはいわずと知れた清少納言ですが、女房という腕にいた二人が実際に会っていたかは疑問です。清少納言が仕えていたのは、一条天皇の后である定子で、明るく快活な定子の影響を受けたようです。地味でひかえめであった紫式部とは好対照でした。『紫式部日記』には、「清少納言はたいへんりこうそうな顔をして漢字を書いているが、その文章をみると、そう上手とはいえない」と、こきおろしています。清少納言から反論はなかったとされ、当の清少納言は紫式部のことを知らなかったのではないかといわれています。
けれども同輩であった女流歌人の和泉式部や赤染衛門には好感を示しています。一条天皇が『源氏物語』の作者は、きっと日本紀(『日本書紀』以下の六国史) をよく読んでいると言ったことで、日本紀の局とも、あだ名されています。このことからも漢文を読まない当時の女性像がうかがえます。
紫式部というのは女房名、もとは藤式部といったのを、『源氏物語』の吉紫にちなんで紫式部と呼ばれたそうです。