戦国時代、およそ一世紀にわたった動乱のなかから、最初に天下統一の先頭に立ったのが織田信長でした。鉄砲足軽を主力に機動性に富む歩兵隊を組織して、意表をつく戦法で力を強めました。桶狭間の戦や長篠合戦などで、有力な大名を駆逐していきました。しかし本能寺の変により、織田信長の統一事業はなかばにして挫折します。
信長の遣業をついだのが豊臣秀吉です。天下を統一し、近世封建社会の基盤を確立した人物です。
秀吉は一五三七? 年、尾張中村( 名古屋市) の農家に生まれています。父はもと足軽の弥右衛門。母はなか( のちの大政所)。七歳のとき父が病死し、母が再嫁したので、養父のもとに一時期いましたが、やがて武家奉公を志し、家を出ます。秀吉、が十三歳のころです。最初、遠江久能の城主松平元綱に仕えています。その後十八歳のころ、織田信長の草履取となって、しだいに重用されていきます。信長の草履を懐中で温めていたというエピソードどおり、秀吉のその忠勤ぶりは、抜群のものがありました。
各地で転戦し、武功をたてた秀吉は、木下から羽柴の姓を名乗るようになります、三十七歳のころには二十二万石を領有するまでになっています。
その後、織田政権にとって緊急の課題であった中国の毛利氏と交戦します。その交戦のさなか、本能寺の変の報に接し、急速、毛利氏と講和をはかり、兵を返して、京、山崎で明智光秀をやぶっています。本能寺の変より、わずか十一日めのことでした。
翌年には、柴田勝家を減ぼし、北陸を平定、信長の遣業をつぎます。信長の後継の地位についたのです。その後、四国、九州を平定し、秀吉五十三歳のころ、一五九〇年には、小田原の北条氏を減ほし、天下統一をはたしました。
この間、秀吉は大坂城を築いて、本拠地とし、朝廷から関白、ついで太政大臣に任ぜられ、豊臣の姓をたまわります。一五九一年には関白を養子の秀次に譲り、以後は太閤と呼ばれます。
秀吉は織出信長の政策を受けついで、関所を廃止し、楽市楽座をさかんにし、重要都市領を直轄し、貨幣を鋳造しました。
そんな秀吉の事業のなかで、とくに後世まで、大きな影響を与えたのが、検地と刀狩りです。検地では、一地一作人の原則をたて、組税と労役を義務づけました。これにより、近世的知行制度が確立し、農村支配の基礎が固まりました。十六年間にわたる大規模なもので、一般に太閤検地と呼ばれています。
また全国の農民から武器を没収し、兵農の別をつけ、あわせて一撲を防止して、一五八八年には刀狩令を出して、検地の遂行をすすめました。
晩年の秀吉は、信長時代のような切れ味がなくなり、独裁による弊害がめだってきます。甥の豊臣秀次一族との不和による一掃、また文禄慶長の役は、秀吉最大の愚行とまでいわれています。けれども誕生の土地である名古屋市や、政権をとった本拠地の大阪市をはじめ、全国的に人気の高い人物です。身長が一五〇センチに満たないといわれた小柄な秀吉であったとされますが、歴史的な事業をみれば大きな人物であったことにちがいはありません。
六十一歳の生涯でした。