長州藩出身で、明治時代を代表する指導的政治家であった伊藤博文は、貧農の家に生まれました。ときは老中水野忠邦が天保改革に着手、失敗したころでした。開国がおし迫った当時、産声をあげ、幼少年期をすごします。
家は貧しく、一二、三歳ごろ奉公に出たことがありました。父十蔵が家族ぐるみで伊藤家を継いでから養子となり、武士の身分を得ています。十七歳のころ松下村塾に入り、吉田松陰の教えを受けることになります。
幕末になると、高杉晋作らとともに、尊王攘夷運動に奔走します。けれども一八六三年の英国留学が契機になり、開国・富国強兵論に転換しています。桂小五郎、井上馨、山県有朋らと倒幕運動を展開します。維新後は次々と新政府の要職を歴任していきます。
一八八二年( 明治十五年) には憲法取り調べのため渡欧し、ドイツの法学者グナイスト・シュタインらの指導のもとに皇帝権が強く、非立憲的なプロシア憲法を学びました。伊藤博文は、法制局長官であった井上馨に命を下し、草案を作成します。草案審議のため、新たに天皇の最高諮問機関として枢密院を設け、伊藤は首相を辞して、枢密院の初代議長にもなっています。その後修正や、審議をへて、草案が完成し、一八八九年( 明治二十二年) 二月に、国民の批判を受けることなく、公布をみることになります。
また伊藤博文は、華族制度、内閣制度の創設、皇室典範の制定、先の枢密院の設置など、天皇制確立に大きな力を注いでいきます。
国会開設後、はじめは政党に左右されない超然内閥、政党否認の態度をとっていましたが、やがて政党との協調の必要を感じていきます。状況の変化に対して柔軟な政治姿勢をとり、元老としても、政党政治に理解を示し、政友会を自ら結成します。しかし、山県有朋ら保守派官僚層としばしば対立していきます。
ロシアの満州進出のときには、日露協商論を展開しますが、外交面での伊藤博文の立場を軟弱外交だと批判され、結果的には日英同盟派に屈することになります。日露戦争中は、対韓政策に中心的な役割をはたし、戦後、初代韓国の統監にもなっています。
いろいろな攻撃や批判を経験する伊藤博文ですが、明治天皇の信任は厚く、そのおちゃめな一面から、その人柄は愛されていたといわれています。明治期を通じて、内外政策に多大な影響力を持った第一の実力者、政治家だといえるでしょう。
そんな伊藤も韓国統監辞任後、満州で、朝鮮独立運動家の安重根に暗殺されています。伊藤博文六十九歳のときでした。
【伊藤博文 いとうひろふみ】 天保十二~明治四十二 一八四一~一九〇九年
明治期の政治家。周防国( 山口県) 生まれ。旧姓は林、幼名は利助、のち俊輔、号は春畝。元老であり、首相であり、枢密院議長、弱国統監、内部卿、政友会総裁と要職を歴任。明治維新後、外国事務局判事、大阪府判事をへて、兵庫県知事、大蔵少輔兼民部少輔、上部大輔などを歴任しています。明治四年の岩倉遣外使節団にも副使として欧米視察している。近代日本で、四度首相を務めるなど希有な政治家であった。一九二二年( 大正十二年)、関東大震災のため、当時調査中だった博文の遺物や書籍一万数千冊が灰になっている。