明治美術界の中心的存在であった岡倉覚三(号は天心) は、越前藩士、勘右衛門の子として、横浜(?)に生まれています。一八六二年のことでした。急激に西洋化の波が押し寄せた明治という時代に、美術運動の指導者として名を残しています。
幼いときから、漢籍を学んでいた岡倉は、同時にヘボン塾で英語を学び、父、勘右衛門の東京入りに従って、東京開成学校に入学、ついで十五歳のころ、新設の東京大学に進んでいます。政治学や理財学のほか、フエノロサ( 一八五三~一九〇八年 アメリカの哲学者、美術研究家、日本美術の独自性を高く評価し、東京美術学校創立に参画、教授となる) より哲学を学んでいます。東京大学在学中にはフエノロサの感化を受け、日本美術の研究を志しています。
東大を卒業してから、文部省に入り、古美術の保護、美術の普及、美術教育調査に力を注いでいます。二十四歳のときには、美術取調委員として、フエノロサといっしょに欧米に渡っています。帰国後は東京美術学校(=現在の東京芸術大学) の開校準備に奔走します。開校後の一八九〇年には、二十八歳の若さで、二代目の校長になっています。民聞から狩野芳崖、橋本雅邦、高村光雲などを挙げて、教授にしています。
西洋化の波は美術界にも当然押し寄せていましたが、岡倉は伝統的な日本画をもとに洋画を取り入れる、新しい美術運動を展開しました。もとより洋画にとびつくものでもなく、日本画に固執するものでもありませんでした。こういう急進的な日本画改革をすすめようとした岡倉の姿勢は、しだいに伝統絵画を標傍する人々から、反発を受けることになります。
内部の献艇にはじまった東京美術学校騒動により、三十七歳のとき、校長を辞した岡倉は、自分につき従った橋本雅邦や門弟の横山大観、菱田春草らを率いて、日本美術院を設立しています。美術院の若き作家たちは、岡倉の理想を受け継ぎ、日本画に西洋画の長所をとり入れた新しい日本画をつくり出していきます。けれども、それらの作品は朦朧派と酷評され、一時、展覧会も閉じています。
一九〇四年に渡米、翌年ボストン美術館の東洋部長になり、一九〇六年にはニューヨークで『茶の本』を出版しています。同年、茨城県出湘民間本美術院を移し、大観や春草、下村観山らといっしょに住み始めています。岡貧の思想は、西洋の物質文明を批判し、東洋の精神性を優位とするものでした。『茶の本』のほか、『東洋の思想』など英文で書かれたものは、外国人にとどまらず、翻訳され、日本人にも広く影響を与えています。
岡倉は美術行政家、美術史家、美術指導者、思想家など多くの顔を持ち、他方面で活躍しましたが、反一面、全体像がよくわからないともいわれます。しかし近代日本美術に与えた功績、明治時代の日本画の代表者に与えた影響は、大きいといえるでしょう。
五十一歳で生涯を閉じました。
【岡倉覚三 たいらのまさかど】 一八六二~一九一三年
明治、大正の美術運動の指導者。岡倉天心。自著『東洋の思想』の冒頭「Asia is one」(=アジアは一つである) の言葉は有名。美術専門誌『国華』も創刊。近代日本が西洋対日本というとらえ方で考えられるのとは違い、岡倉はアジア総体のあり方のなかで、日本をとらえようとしていたとする学者もいる。当時の日本の人たちが、列強各国とわたり合うため、力をつくしたが、岡倉もその一人であった。