俳句、短歌の改革をした文学者 正岡子規 (1867~1902年)

2014年4月9日(水)

明治期の俳人、歌人である正岡子規は、短歌や俳句など短詩型文学の革新運動に精力的に取り組んだ人です。また俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など幅広く創作活動をした、明治時代を代表する文学者です。二ト一歳のときに肺結核と診断され、以後、病に苦しまされますが、寝たきりになってもなお、俳句、短歌、随筆を書き続け、後進の指導を続けました。三十六歳で亡くなっています。

 子規は一八六七年、山応三年、愛媛県松山市に生まれています。本名を川市常規といい、別名を獺祭書屋主人、竹の里人といいます。父親、隼太は松山藩の下級武士でした。最初、政治家を志し、松山中学を中退して、十七局のとき上京します。東京大学に進みましたが、中退、「日本」新聞社に勤めます。日清戦争にも従軍しましたが、発病、以後病床にあって俳句、短歌の革新運動に精力的な仕事をしていきます。

 短歌の革新に乗り出したのは、子規が二十一歳のころで、「日本」に「歌よみに与ふる書」を連載します。古今集を作家の手本としていた旧派を排して、新鮮な写生歌を提唱、万葉集を尊重しました。「根岸短歌会」をつくり、歌人を集めました。子規を継承していく一人がアララギによる伊朕左千夫でした。

 俳句においても、いわゆる月並俳諧の陳腐さを否定、俳句を一つの文学としてとらえ、俳句の短詩型に、文学として新しい美を煉っていこうと試みました。

 本来、毎月、月ごとを意味する「月並み」という言葉に、人並み、へいぽんという意味を含んでいったのは、子規がありふれた俳句や短歌をさして使ったことが始まりといわれています。

 子規は俳論も多く残していますが、その中心にあったのが、あるがままのものをあるがままにうつせという写生論でした。また江戸俳諧のなかでも、芭蕉を高く評価する一方、蕪村を再評価したことがあげられます。蕪村調というのは、印象鮮明な絵画的句風を重んじたものでした。

 子規が主宰した「ホトトギス」は、俳句雑誌では俳壇の主流にあり、今なお発行されています。高浜虚子や河東碧梧桐、夏目激石、鈴木三重吉など、子規の門に集まりました。

 雅号になっている子規はホトトギスの異称であり、結核を患い、略血した自分自身、血を吐くまで鳴くといわれるホトトギスをたとえたものです。

 また正岡子規といえば、当時はやりだしたベースボールに熱中した人物としても知られています。二十二巌で略血するまで選手で、ポジジョンは捕手としてならしていました。バッターを打者、ストレートを直球、ショートを遊撃手など、外来語を日本語に訳した人物としても有名です。二〇〇二年には、野球殿堂入りもはたしています。夏目激石との親交もあり、松山に漱石がいたとき、「鰻丼をおごる」といって、その代金を漱石に払わせたというエピソードも残っています。子規の短歌一首と俳句一句です。

 くれなゐの二尺伸びたる醤磁の芽の針やわらかに春雨の降る

 -紅色をして二尺ほど伸びた蓄積の新芽にあるとげが、まだやわらかく、降るとも見えない春雨が静かにふりそそいで、いかにもやわらかな感じがする-