日本の女子教育の先駆けをなした 津田梅子 (1864~1929年)

2014年4月9日(水)

 明治四年、一八七一年、明治維新政府は欧米の先進文化を学ぶために使節団を送っています。岩倉具視を全権大使として、一年九カ月におよぶ米欧歴訪の途につきました。当時、条約改正について、各国政府の意向を打診することと諸外国の制度文物を見聞することが目的でした。この使節団に五人の女性が加わっていました。そのなかの一人がアメリカに渡った津田梅子です。

 梅子は五人の女性のなかでも最年少で、この太平洋横断中に七歳の誕生日を迎えています。女子留学は北海道開拓使次官の黒田清隆の提案で実現しています。梅子が帰国したのが十八歳のときで、母国の日本語はほとんど忘れて帰国したということです。

 栂子は一八六四年、元治元年、江戸牛込町南御徒町に生まれています。幕臣であった父親の仙は、明治に入り、築地のホテル館へ勤め、また一白洋農学の栽倍なども手がけました。梅子が幼少のころには、ハえの農園の手伝いもしています。

 渡米した梅子は、ワシントン郊外のアメリカ人、日本弁務官書記のチャールズ・ランマン家に預けられます。その後の十数年間のほとんどは、梅子はここですごしています。英語やピアノなども学び始め、初等中等教育を修了した梅子は、特定の宗派に属さないフィラデルフィアの教会で自発的に洗礼を受けます。

 そして、ラテン語、フランス語などの語学や英文学、自然科学、芸術を学んでいます。女子留学生のうち二人は、体調を崩して、帰国、アメリカには三人が残ることになりました。

 梅子は十八歳のとき帰国しますが、ほとんど日本語を忘れ、生涯、日本語の発音には苦労したと伝わっています。

 アメリカから帰った梅子は、華族女学校で英語を教えています。一八八九年には再び渡米し、生物学を専攻し、教授方法も学んでいます。大学から学問を続けることをすすめられますが、一八九二年には再び帰国しています。ほか明治女学院でも教師生活をおくつています。キリスト教教育、婦人運動に強い関心ももっていました。

 梅子には、アメリカにいるころ、いっしょに留学した日本の女子留学生仲間と語り合った夢がありました。それは日本に帰ったら、「自分たちの学校」をつくることでした。

 ときは女子大学制設運動がおこり、一八九九年になると高等女学校令、私立学校令が公布され、法整備され、環境が整いつつありました。一九〇〇年、梅子三十六歳のときに、女子英学塾( 現在の津田塾大学の前身) を創設しています。同校は女子専門教育機関の先駆けをなすものでした。

 少人数教育、教師の資格と熱意、学生の研究心を重視し、英語教育とキリスト教による人格教育を実践していきます。一九〇五年にはキリスト教女子青年会(YWCA) の初代会長になっています。亡くなる四年前には、日本の女子教育に対する貢献をたたえられ、勲六等宝冠章を受けています。

 梅子の教育に対する情熱は深く、日本女性の地位向上のため、教育に献身した人でした。没年、六十四歳。葬儀はキリスト教式の校葬で、新渡戸稲造が三十分間、梅子の功績や人格をたたえる弔辞をよんだのは有名です。