「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」の言葉で有名な福沢諭吉ですが、一万円札の肖像としても身近な存在になっています。聖徳太子に代わって、昭和五十九年十一月に登場、二十年以上、福沢一万円札が続いています。福沢諭吉は明治の新しい時代になっても、官に仕えず、在野の立場で活躍した民間科蒙思想家です。また慶応義塾の創立者でもあります。
一八三四年( 天保五年)、中津藩士福沢百助とお順の次男として、蔵屋敷のあった大阪の堂島に生まれています。父の百助は学問があり、すぐれた人物でしたが、身分制度のため、武士でも出世できませんでした。この父が出院できなかったということが、諭吉の思想をつくるきっかけにもなったと伝わっています。二歳のとき父と死別、母子二家は中津へ帰ることになります。母の手一つで育てられますが、諭吉もよく母を助けたということです。
封建的な門閥制度に矛盾を感じていた福沢諭吉は、兄の三之助とともに長崎に出て、蘭学を学び始めます。その後大坂の蘭学の大家、緒方洪庵の適塾で、蘭学を精力的に学び、塾長になっています。一八五四年二十歳のころ、藩命で江戸築地の中津端屋敷に蘭学塾を聞くことになります。これが、後の慶応義塾に発展していきます。
けれども、その翌年には英学に転じ、一八六〇年には戚臨丸に乗り込み、渡米、二年後には幕府遣欧使節団に入り、ヨーロッパ六カ国を歴訪しています。これをもとに著したのが、日本人にヨーロッパの文化を紹介した『西洋事情初編』です。
一八六八年、明治一年には、これまでの家塾を改め、慶応義塾と称し、商工農士の差別なく、洋学を志す者の学問の場とします。明治に入って四年後には『学問のすゝめ初編』を刊行します。その初編冒頭には、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」と人間平等宣言をしています。諭吉三十七歳のときです。この本は三百四十万部売れました。貸し出された数ではなく、実際に売れたのです。当事の日本の人口が三千五百万人。国民の十人に一人は読んでいたことになり、大人に限定すれば、この割合はもっと多くなります。
四十歳をすぎると、東京府会議員になっています。『学問のすゝめ』で啓蒙思想家としての地位を確立、洋学者の結集した明六社に参加、『明六雑誌』に文明開化の啓蒙運動を展開しました。一身独立、一国独立の主張が『学問のすゝめ』、在来の日本文明を批判し、西欧文明を目的として独立を主張した『文明論之の概略』などの著作を刊行しています。
明治初年から明治十年ごろまでの日本の開明期の機運は、福沢諭古によって指導されましたが、その後じょじょに国権優先の考えになり、『脱亜論』を発表、侵略主義、帝国主義的な構想をもつようになっていきます。文明の啓蒙家から脱亜の提唱者ヘ転身し、近代化を強く求めていきました。一八八二年より、『時事新報』を創刊、以後そこで論陣をはっていきます。民主主義者、合理主義者、西洋山口市拝、一般民衆への非情など、福沢一人に対する評価はさまざまに集まっていますが、文明の教師であり、日本の近代化に大きな力を与えた人物であることにちがいはありません。