「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事業しげきものなれば、心に思ふことを、見るもの、聞くものにつけて、言い出せるなり。花に鳴くうぐひす、水にすむかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか、歌を詠まざりける。力にも人れずして、天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、別交の仲を和らげ、たけき武人の心をも慰むるは、歌なり。」
古今和歌集仮名序の冒頭部分です。平安前期、十世紀になると、和歌はいよいよ降盛になり、漢詩文を圧倒するようになります。醍醐天皇から古今集編纂の勅命が下り、その撰者の一人になり、古今集成立を主導したのが紀貫之です。最初に記した仮名序の作者として、貫之は仮名文創造時代のものとして、文学史上重要な初めての歌論を苦しました。
この仮名序では、「心」と「詞」という二面から、和歌を説明し、理論的な考察の対象としています。通訳しますと、「この世に生きている人は、なにかにつけて、さまざまな事件に出合うので、そこで感じたこと、または見たこと、聞いたことにつけて、言い出したのが、歌になったのです。花に鳴くうぐいす、清流にいるかじかの声を聞くと、およそ生命のあるすべてのものは、歌を歌わないものはありません。歌は、力を入れないで、天地の神々を感動させ、男女の仲を親しくさせ、勇猛な武者の心も慰めるものです。」
紀貫之は和歌の本質は、日常での出来事をとおして、人の心に生まれた感動を、言葉によって表現したものであるとしたわけです。漢詩文や万葉集の両方に涼くつうじていた貫之は、伝統的な和歌を言話芸術として確立し、その当時、公的な文芸であった漢詩文と対等、またはそれ以上の位置まで高めた人物です。
生没年は不詳とされていますが、宮中では、位記などを書く内記の職につき、四十代なかばで、ようやく従五位下になっています。以後、六十歳近くで、土佐守に任ぜられています。最終的には、従五位上に終わっています。
紀賞之は官位、官職については、それほど恵まれていませんでしたが、歌人としては、国文学史上、白眉の一人で、華やかな存在でした。古今集にも筆頭の歌数を残し、古今集の性格を決定づけています。歌風は理知的で情趣的な味わいに欠ける傾向があります。その歌は掛詞、緑語などもよくし、知巧的ともいわれています。
こんな歌も残っています。
霞立ち木の芽もはるの雪ふれば
花なき里も花ぞ散りける
( 霞が立ち、木の芽が張るこの初春に、雪が降るので、花もない里に花が散るといった珍しい景色だなあ)
さらに貫之といえば、日記文学の祖とされる土左日記です。紀貫之が土佐の国主としての任期が満ちて、都へ帰るまでの日記体による紀行文学です。男はは漢文を書くのが常識とされていた時代に、女の作者を装って、平仮名でつづりました。表現が簡潔で余情にあふれ、明るい朗らかなおかしみがあり、率直でいゃみがない作品として評価されています。
紀貫之は、国風文化の推進、確立を果たすという大きな功績を後生に残しました。