およそ百年におよんだ戦国動乱のなか、最初に全国統一の前提をつくったのが織田信長です。織田氏の祖先は尾張の守護代の家臣でした。信長の父、信秀は尾張南部を支配していました。信長は信秀の三男です。
信長は鉄砲足軽を主力に機動性に富む歩兵隊を組織して、意表をつく戦法でしだいに力を強めていきます。信長の生慨は戦闘にあけくれたものでした。
一五六〇年には駿河の今川義元を棉狭間で奇襲して倒します。ここで織田信長の名前は、一躍、戦国時代にとどろくことになります。信長二十六歳のころでした。
今川義元亡き後、信長は三河で独立した徳川家康と同盟を結んでいきます。近江の浅井氏や甲斐の武田氏などと通婚して和をむすびます。一五六七年には美濃の斎藤氏をくだし、稲葉山械に拠点を移します。この闘の名前を岐阜と改名させました。
一五六八年には足利義昭を擁して、上洛し、義昭を将軍臓につかせ、天下統一をめざします。二年後の一五七〇年には、浅井長政と朝倉義景の連合軍を姉川の戦で破ります。そのとき加担した延暦寺を焼きはらいました。これで信長は京都の周辺を完全に掌握し、将軍足利義昭もついに京都から追放、武士の頂点に立つことになります。足利尊氏以来十五代二百三十六年つづいた室町幕府は、ここに滅亡しました。
一五七五年、信長四十一歳のとき、三河の長篠で武田勝頼率いる騎馬隊に、鉄砲隊を活用した戦法で壊滅的な打撃を与えます。この戦いは長篠の戦いと呼ばれ、戦国時代最強といわれていた騎馬軍団を打ちやぶったのです。当時の鉄砲は、撃つまでに時間がかかり、俊敏な騎馬隊には不利とされていましたが、連続発射する三段撃ちを編み出し、武田軍を壊滅させました。
一五八〇年には石山本願寺を屈服させ、この間、琵琶湖をのぞむ山主に壮麗な安土城を築き、拠点としました。五層七重の豪華絢欄な城であり、天主内部は吹き抜けとなっていたといわれています。イヱズス会の宣教師は「このような豪華な城はヨーロッパにも存在しない」と母国に手紙を送ったと伝わっています。
しかし信長は、一五八二年、備中で毛利氏と対戦中の羽柴( 豊臣) 秀吉の援助に向かう途中、家臣の明智光秀の反乱にあって、自殺します。信長の統一事業は半ばにして挫折しました。四十九歳でした。
信長が好きだった幸若舞「敦盛」の一節「人間五十年、化天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」(人生五十年、長いようでもあるが、八百歳を一日とし、八千歳の寿命を保つといわれる化楽天の者に比べると、ほんの夢幻、瞬間にすぎない) の歌のとおり、ほぼ、その歳で、歴史の舞台から去ることになります。奇行とともに、破壊者とも改革者ともいわれた信長。安土城下に楽市、楽座の制をしいて、諸座諸役などの税を免除し、商人の自由な活動を促進したため、多くの商人を集め、繁栄しました。また領内の道路を整備し、関所を撤廃するなど、商業の発達に力を注ぎました。
青年のころは、女子とまちがうほどの美男子であったとされ、身長は一七〇センチといわれています。相撲や囲碁が好みで、武将であるとともに趣味人であったといいます。