井原西鶴、近松門左衛門、芭蕉といえば、小説、浄瑠璃、俳諧の分野を代表して、江戸元禄期の三大文豪と評価されています。時代は日本近但文学の最盛期でした。今回は俳聖と呼ばれる芭蕉をとりあげます。芭蕉は江戸前、中期に活躍した俳人で、父は松尾与左衛門、藤堂藩の無足人(=所領、禄のない下級武士、種の郷土) の子として、三重県上野市に生まれています。本名を松尾宗房といい、俳号も三十代に入ってから挑青を使い、三十九歳からは芭蕉と改めました。
芭蕉といえば日本だけでなく世界の詩人として、作品は愛誦されるほどの俳人です。人生は旅であるとの認識があり、自然を愛し、花鳥風月を見、しきりに旅をくり返しました。「まことをせめる」俳諮の精神、歴史観としての不易流行など、革実的世界を追求してやまなかった人物です。
少年のころから藤堂藩の藤堂信七郎良精に仕え、その子良忠の近侍になっています。良忠は北村季吟の弟子であったので、芭蕉も俳講を学んでいきます。十九歳の年末にこんな作品もつくっています。
廿九日立春なれば 春や来し年や行きけん小晦日 良忠没後、二十八歳のころ処女作「貝おほひ」を編み、二年後には北村季吟より連俳の伝授を受け、俳諧師として自立するようになりました。その後、江戸に山て、談林風の句を詠んでいましたが、「虚栗」において、新しく漢詩文の趣向をとりいれた句風( 天和調) を示し、ようやく独自の句・境を聞く第一歩をふみ出します。
そのころ郷里の母の死に合い、これを弔い、行きづまりつつあった天和調作風を脱皮するため、巴蕉庵を捨て、四十一織のとき、片野ざらし紀行」の旅に出ます。この旅において芭蕉の俳詣への熱い情熱が発揮され、ほぼ蕉風が確立、しだいに閑寂味と幽玄味とを加えていきます。
江戸に戻った芭蕉は、草山町に一年あまり問まりましたが、焦風をさらに高めるめため、再び鹿島に旅をして、月を賞でた「臨島紀行」が成り、翌年には吉野、須磨、明石にいたる旅に出、木曽をまわり、更科の月を見、「更科紀行」を生み出しています。さらに漂泊の思いはやまず、長途の旅を思い立ちます。これが行程約六百里、七カ月の大旅行「おくのほそみち」でした。
芭蕉は「わび」や「さび」に続いて、死ぬ前年には新しい境地を聞こうと「軽み」の俳諧を唱導し、上方へ入ります。各地で指導しますが、大坂で発病し、門人に見守られながら、大坂の客舎で漂泊の一生を終わります。
旅に病んでは夢は枯野をかけめぐるを遣しました。五十一歳でした。
梅が香にのっと日の出る山路かな( 円十存のやや寒い山路を歩いてくると、梅の香が一面に漂っている。その香のなかに思わず朝日がぬっと顔を出した。「軽みの句」)
初しぐれ猿も小蓑をほしげなり( 伊勢から故郷の山中を歩いていると、ふと道端の木に小猿が寒そうに、自分も蓑がほしいというようなようすで見ているのが目に入った。「当時その新しさに驚嘆を呼んだ句」)
西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利久が茶における、其貫道するものは一なり( 芭蕉が自分自身がつながる伝統を先人の上に数える有名な一節)