奈良時代の初期には、世襲的な特定の氏が政権を独占することはありませんでした。皇族や中央の有力な氏族がならんで協力し、律令政治の推進にあたりました。
六四五年の大化改新の功臣であった中臣鎌足は、天智天皇から藤原の姓を賜りました。その二男である藤原不比等は、大宝律令、養老律令の編纂に携わりました。
藤原不比等が生まれたのが六五九年。不比等が生きたのが飛鳥時代から奈良時代初期です。不比等は実質的な藤原氏の祖といわれています。
皇位の継承をめぐって皇子の大友皇子と皇帝の大海人皇子が争った壬申の乱のとき、不比等は十三歳で、まだ政治には参加していません。
幼少のころ事情あって山科の田辺史大隅の家に養われたとされ、名を「史」とも書きます。このころから、氏族のプリンスとして育てられたと伝わっています。
天武天皇崩御前後には、時の権力に入り込み、六八九年、三十一歳のころに判事になっています。このとき初めて正史に登場します。
天武天皇の孫文武天皇の大宝元年七〇一年、刑部親王らとともに、不比等は大宝律令を完成させています。不比等四十三歳のころです。律令のうち、律は刑法、令は国家統治に必要な行政法にあたります。律令の中央官制は、二官、八省、一台、五衛府から成っています。二官とは国家の祭租をつかさどる神祇官と、行政一般をつかさどった太政官のことです。
大宝律令の撰定に参加していたころ、不比等は、すでに美努王に嫁して葛城王( 後の橘諸兄) ら三児を産んでいた県犬養三千代と結婚しています。不比等は官邸内の人脈を伸ばし、後の文武天皇である皇太子、軽皇子の夫人として、娘宮子を入内させています。
宮中にとりいる豪族は数多かったと想像されますが、不比等が抜きん出ていたのは、謀略もさることながら、官僚としても優秀であったのではないかと、いわれることです。
いずれにせよ、県犬養三千代の宮廷における隠然たる勢力にも助けられ、不比等はしだいに政界にも進出、中納言から大納言へ昇格していきます。大納言に任ぜられたのが、七〇一年、大宝元年のときです。七年後には右大臣にすすんでいます。
右大臣にすすんだ二年後には、元明天皇は、藤原京から平城京に都を移します。以来、七十余年、奈良時代は続きます。七一八年、不比等五十九歳のころ、律令の再修正を命じられています。この養老律令の完成を待たずに、七二〇年に没しました。
七二〇年病が重いときには、大赦令が出るほど、天皇に信任されていました。
没するにおよんで、太政大臣を贈られ、没後四十年たって、「淡海公」と尊称されています。長女宮子は文武天皇夫人、次女女安宿媛は聖武天皇皇后となり、四人の男子も要職に就いています。
また山階寺の維魔会を復興したり、興福寺を奈良に遷したり、「懐風藻」に漢詩も収めています。政治能力と権謀術数に長けた人であり、藤原氏隆盛の基礎を築いた政治家でした。万葉の歌人、山部赤人が、不比等の旧邸をよんだ歌も残っています。