一国の文化は、単独に一国のみの努力によってつくられるものではありません。文化が連綿と続く日本には、日本の文化を発展させようと来日する熱意ある有徳の外国人がたくさんいます。唐の高僧、鑑真も代表的な一人でしょう。
六八八年、中国、揚子江の河口、揚州で生まれました。時は唐、則天武后の時代で、日本では、律令政治が成立するころです。十四歳で出家し、僧となり、修行を始めています。当時は律宗がさかんでした。七〇七年、鑑真二十歳のころ、唐の都、長安で修行をつみ、しだいに名声が高まっていきます。長安のほか、各地で修行をつんだ鑑真は、律学を究めます。律学というのは、仏教の僧として、必ず受けるべき戒律の学問のことです。律学と合わせて天台も兼学しています。
播州に帰ってからは、大明寺で律を講じ、「江准の化主」と仰がれ、鑑真の名は、全唐に広く知られていました。
そのころ、日本では、聖武天皇が、政情不安をしずめるために、鎮護国家を旨とする仏教興隆に力を入れました。仏教興隆は空前の発展をとげますが、僧侶の方の荒廃ぶりも、はなはだしく、天皇は「仏教の正しい教え」を切望しました。天皇は、唐の著名な授戒僧(=正式な僧になるため、受戒の儀式を授ける戒律専門の僧) を招こうと決断します。その任にょうえいふしようあたったのが、栄叡、普照の若き僧で、七三三年に唐へ出発、東奔西走すること九年で、ついに鑑真に会い、「律を伝える弟子はいないか」と要請しました。けれども、そのとき渡日に消極的な弟子たちをみて、鑑真は自ら、日本に渡ることを決意します。このとき五十五歳でした。
それから五回も渡海に失敗し、あるときは、同行の偽や弟子の妨害にあったり、風雨に難船したり、あるときは遠く海南島まで、流されることもあり、六度めの渡海、十二年の歳月をかけ来朝を果たします。その問、重度の過労により自ら失明し、また弟子の死にも合っています。
来朝した鑑真は、七五四年、平城京に入京します。東大寺で、鑑真より菩薩戒を授かった者は、天皇、皇后、皇太子、沙弥など四百四十余人が受戒したと伝わっています。これは、わが国の正規の受戒の始まりでした。七五八年には大和上の称号を与えられ、翌年には戒律研錆の道場として、唐招提寺をひらいています。孝謙天皇は、勅を下して、鑑真の伝法の労苦をねぎらいました。「授戒伝律は一に和上に任す」とさえいわれました。
鑑真は、戒律、悟りをひらくための正しい修行生活の規律を説き、仏教の乱れを正していきました。また仏教だけでなく、薬物、書道、建築、美術などの歴史にも大きな影響を与えています。中国からすれば、日本は東夷の国で、唐政府の来朝阻止にもあいながら、自らの情熱をもって、来朝した鑑真。唐招提寺に残っている鑑真像は、死期が迫っている鑑真を慕って、全国から集まった弟子たちによってつくられました。その静かなほほ笑みは、鑑真和上の慈愛の深さを私たちに伝えています。没年、七六三年、七十六歳でした。
【鑑真 がんじん】 六八八~七六三年
中国唐代の僧J 日本の律宗の祖。 過海大師、唐大和上と尊称。江鮮省出身。俗称は淳子。大明寺に住し、律、天台に造詣深く、悲回院をつくり、貧人を救済するなど、名声が高い高徳の僧。彼が将来した諸経巻、仏像、薬物など、当時のわが国の文化に大きく貢献した。鑑真像に接した松尾芭蕉は「若葉しておん眼の雫ぬぐはぱや」と詠じた。在唐中には、戒を授けること四万有余と伝わっている。