服部 匡志
はっとり ただし
眼科医
昭和39年生まれ。大阪府出身。京都府立医科大学医学部卒業、京都府立医科大学眼科で研修。その後、各地の民間病院で研鑽を積む。2002年よりベトナムに渡り貧しい人々に治療を行い「ベトナムの赤ひげ先生」と呼ばれる。2022年8月、マグサイサイ賞受賞。
人のために生きろ
ベトナムの赤ひげ先生
私は現在、眼科医としてベトナムで医療活動をしています。日差しの強い東南アジアでは、白内障などの眼病リスクが高いのですが、病院に通う経済的余裕がない人が多くいます。失明すると仕事ができなくなるので、目の治療は人々を貧困から救うことにもつながります。
月の半分を日本の病院で働き、残りの時間をベトナムでの治療にあてるという日々を送っています。この連載では、私が医師を目指すようになったきっかけ、出会った人々、影響を受けた出来事など、これまでの道のりを振り返ってみたいと思います。
ひ弱ないじめられっこ
私は子どものころ、体が弱く、よくいじめられていました。その痛みを知っているので、私は絶対に人をいじめたりはしません。「弱い者いじめ」という最低の行為に対する怒りが、弱い立場の人を助けたいという思いにつながりました。
中学に入ってから、勉強に打ち込むようになりました。いじめっこたちを見返してやろうと思ったのです。成績がクラスで一番になると、自然にいじめはなくなりました。バスケットボールを始めたことで体力も付き、友だちも増えました。小さなことでも自信を持つことは、自分を変えるきっかけになります。
父からの手紙
父は公務員で、民生局の職員として社会福祉の仕事をしていました。正月から作業用のジャンパーと長靴で、困っている人たちのために炊き出しに出掛けていった姿を覚えています。仕事人間で怒ると怖い近寄りがたい存在でしたが、私が高校に合格したときは涙を流して喜んでくれました。
そんなとき、父に末期の胃がんが見つかったのです。闘病生活は、父にとっても家族にとっても大変つらいものでした。私は高校に進学し、部活が終わると日課のように病室に通いました。
そんなある日、父の入院先の医師と看護師が父親のことを話しているのが聴こえたのです。「あの患者は文句ばかり言ってうるさい。どうせもうすぐ死ぬのに」。私は言いようのない怒りと悲しみに襲われ、「こんな医師が世の中にはびこってはいけない。僕が医師になり、病気で苦しんでいる人を救いたい」。と思いました。
それが医師を志すようになったきっかけです。亡くなる直前、父は私に手紙を遺してくれました。「お母ちゃんを大切にしろ。人に負けるな。努力しろ。人のために生きろ」。その言葉は、今も忘れたことはありません。
しかし決意が決まったとはいえ、当時の私の成績では医学部現役合格はとても無理でした。浪人して勉強を続け、1年、2年…。結局4年浪人し、もう諦めようと思ったこともありましたが、最後に背中を押してくれたのは母でした。私が浪人を続けていることで、母も肩身の狭い思いをしていたはずですが、「ここまで来たら必ず医学部に入れ」と言ってくれました。私は「負けるな! 踏ん張れ!」と心の中で叫び続けて受験に挑み、京都府立医科大学に進学することになったのです。息子を信じて見守ってくれた母には心から感謝しています。