北原 照久

北原 照久

きたはら てるひさ

ブリキのおもちゃ博物館 館長

昭和23年生まれ。東京都中央区京橋出身。ブリキのおもちゃコレクターの第一人者。1986年4月、横浜山手に「ブリキのおもちゃ博物館」を開館。その他、全国各地に博物館や常設のミュージアムがある。テレビ東京系列「開運!なんでも鑑定団」に鑑定士として出演。ラジオ、CM、各地での講演会等でも活躍中。

人生を変える言葉

反抗期の末っ子

僕の出身は、東京の京橋です。生家は、戦前からミルクホールを経営していました。ミルクホールとは喫茶店の前身のような店のことで、「モボ」「モガ」と呼ばれるおしゃれな男女が集まる場所です。その後、戦争で大空襲に遭い、その建物はなくなりましたが、戦後に喫茶店とスキー用具の専門店をオープンしました。どちらも物心つくころから繁盛しており、僕は活気のある商売人の家で育ったんです。父は典型的なモダンボーイで、新しいもの好きで、センスと好奇心に富んだ人でした。僕が30代のうちに亡くなってしまいましたが、コレクターの気質は、父から受け継いだものだと思います。

4人きょうだいの末っ子で、兄2人、姉1人。上の3人がとても勉強ができたものですから、小さいころからよく比較されました。そのため、「どうせ自分は他のきょうだいとは違う」と、ひねくれてしまって、成績も悪く小学校の通信簿はオール1くらいの落ちこぼれでした。

両親は、「この子は人と比較されることが嫌いなんだ」と心配してくれて、きょうだいの姿の見えない場所に行けば、やり直せるのではないかと、隣の区の中学校に越境入学させてくれました。しかし、そこでも問題を起こし、とうとう中学3年の2学期に、退学処分になりました。

花を踏まない子

そのとき母は、「起きてしまったことは仕方がない。お前の人生は今までの人生よりこれからの人生の方が長いんだ。人生はやり直しはできないけど、出直しはいつでもできるんだよ」と言ってくれたんです。褒めるところがないような僕に、「お前は本当は優しい子だ」とも言ってくれました。幼いころ、僕が小さな花を踏まないよう避けて歩いていたからだというんです。僕にはそんなつもりはなかったんですが、そう言われてからは、本当に花を踏まなくなりました。母は、どんなときでも子どもの良いところを見つけて褒めてくれる人だったんです。その後、地元の中学を卒業したら家業を手伝おうと思っていましたが、父が、「高校だけは出ておけ」と言ってくれて、何とか私立の本郷高校にすべり込むことができました。

小学校1年生か2年生のころ

やればできるぞ

僕の人生が本当に変わったのは、高校に入って、担任の沢辺利夫先生と出会ってからです。ラガーマンで明るくて強い兄貴みたいな人。忘れもしない高校1年1学期の中間試験で、僕はまぐれで60点を取ったんです。すると先生は、「北原、お前、やればできるぞ」と言ってくれました。それが心に響いて、次の期末試験は本気で頑張ったんです。今度は平均70点を取りました。先生は、「お前、天才か」と喜んでくれました。人は褒められると応えようとしますから、また頑張ったんです。また褒めてくれる。また頑張ります。結局、卒業時には総代、つまり学年で1番になりました。全然ダメだった人間が、卒業するときには学年を代表して卒業証書を受け取ったんです。

恩師との出会い、言葉との出会い、それが人生を変えてくれました。希望の言葉を与えて、子どものやる気を引き出し、努力に対して徹底的に褒める。それが教育なのだとあらためて思います。先生には返しきれない恩があり、今でも親しいお付き合いがあります。