中村 正善
なかむら まさよし
株式会社JINRIKI 代表取締役社長
昭和33年生まれ。東京都渋谷区出身。
株式会社JINRIKI代表取締役社長。
世界初のけん引式車いす補助装置「JINRIKI」の開発者。観光庁ユニバーサルツーリズム検討会委員、視覚障害者文化振興協会理事なども務める。日本発明大賞、福祉機器コンテスト最優秀賞など受賞多数。
アイデアの原点
JINRIKI開発までの歴史
私の会社は、車いすに装着して使う補助装置「JINRIKI」を製造・販売しています。車いすを後ろから「押す」のではなく、人力車のように前から「引く」というアイデアから生まれた道具です。段差や砂利道もスムーズに移動できるため、災害避難用として自治体を中心に導入が広がっています。
私が今の会社を立ち上げ、JINRIKIを開発するまでには、長い道のりがありました。その日々を振り返りたいと思います。
私には4才年下の弟がいました。生まれて間もなく小児マヒのため、知的障害と片手片足マヒという障がい者になりました。私は弟の車いすを押して、いつも一緒に遊んでいました。車いすは弟の体の一部であり、特に外での遊びには欠かせないものだったのです。しかし片手が不自由な弟は、自分で漕ぐことができません。今のような電動車いすもなく、ましてや前輪が小さい車いすにとって、子どもが遊ぶ場所は、移動が難しい場所ばかりです。私は、前輪を持ち上げるウィリーの技術を身に付け、弟を連れて動き回っていました。これが私の車いすとの出合いであり、今のアイデアの原点だといえます。
変わらない気持ち
先日、昔のアルバム等を整理していると、小学校の卒業文集が出てきました。私の「僕の将来」という作文には、「僕は将来医者になって弟の足を治すんだ。もしそれまでに弟の足が治っていても、他の障がい者の足を治す」と書いていました。さらに「弟はまだ良い方だ。養護学校の同級生には自分でトイレやご飯の意思すら伝えることが難しい友だちもたくさんいる。そんな人の役に立ちたい」とあります。
残念ながら医者になるほどの学力もなく、その後は普通のサラリーマンとなりましたが50年後の今も、その当時の気持ちが変わっていないことに驚きました。
一度は諦めたアイデア
社会人となり、金融系システムコンサルタントとして働いていた私は、あるとき、標高1500メートルにある長野県上高地での観光客誘致のプロジェクトを担当することになりました。そこで、高齢者や車いすユーザーに来てもらおうと考え、河川敷や山道にも対応できる車いすを探したのです。弟の車いすを押していた経験から、段差や砂利道での不自由さはよく知っていましたが、どこを探しても適した車いすは見つかりません。どうしたら凹凸道でも進めるのか、考えるうちにひらめいたのが、子どものころによくやった、前輪を持ち上げるという仕組みでした。
車いすの小さな前輪は、段差や凹凸にひっかかりやすく、介助者が押す場合は力をかけて前輪を持ち上げ、段差を越えなければなりません。しかし、非力な女性や子どもでは、前輪を持ち上げることすら難しい。そこで、けん引レバーをつけて「引く」ことを思いつきました。てこの原理で前輪を軽く持ち上げれば、大きな後輪だけになり、残りの力と体重を利用すれば、凹凸道だけでなく砂浜や雪道もスムーズに進めます。しかし、アイデアを思いついたものの、商品開発の経験などなく、一度は諦めるしかありませんでした。そんな私に、大きな転機が訪れます。それは、2011年3月11日に起きた東日本大震災です。