志茂田 景樹

志茂田 景樹

しもだ かげき

作家 よい子に読み聞かせ隊 隊長

昭和15年静岡県生まれ。1980年、小説『黄色い牙』で第83回直木賞受賞。
99年、「よい子に読み聞かせ隊」を結成、隊長となり全国各地で読み聞かせ活動を行っている。2010年より始めたtwitter では、中学生から大人まで27万人を超えるフォロワーに支持されている。

作家志望から脱・転職人生が始まった

人生の転機

1968年は、僕の転職人生にとって大きな節目の年になりました。上司の口が臭いから、といった実に簡単明瞭で幼稚な理由も含めて、嫌になったら転職を繰り返していた僕は、保険調査員になりました。全国各地への出張が多い仕事で、長崎、金沢、弘前など、かねがね行ってみたいと切望していた地に、ただで行けることになりました。と言っても、仕事はきつかったですよ。例えば北陸3県に6件の調査案件を抱え、10日間ですませてこなければなりません。6件の調査は最低1件あたり5箇所の訪問をしないと仕上がりません。

10日間で30箇所です。僕がやらされていた調査は被保険者が保険加入後2カ月以内に死亡した場合、いわゆる短期死亡のケースで、どのような状況で死亡したかを確認する調査です。被保険者宅を訪れ、遺族からの事情聴取に半日かかることもありました。開業医の主治医に会うのに7時間待たされたこともありました。

作家志望の芽生え

10日で30箇所はとてもきつい仕事になりました。それでも、調査地が雪の金沢で、30分でいいから兼六園を駆け足で見ていくか、と束の間の観光を楽しみました。

列車、バスでの移動時間がやたら長かったことが幸いして、この時期はいちばん濃密に小説を読みふけることができました。あるとき、急行の停車駅で買い求めた小説雑誌に新人賞受賞作が載っていました。一読して、このくらいのものなら自分にだって書けるぞ、と思いました。その一瞬が作家志望の芽生えだったのですから、かなりいい加減なものでした。

それはともかく、保険調査員の仕事は僕の性に合っていたのかもしれません。独り旅で、上司や先輩に気を遣わないですみました。これはありがたかった。

直木賞受賞式にて(1980年)

死線をさまよって

翌1969年の晩春のことでした。北陸方面から夜行列車で帰る途中、七転八倒するほどの腹痛に襲われました。ボストンバッグにまだ開栓前のウイスキーのポケット瓶を入れていたので取り出し、一気飲みしました。

しばらくして腹痛が治まり、目覚めたら終着駅の上野でした。その夜、また痛み出し、救急車で病院に運ばれました。手遅れの虫垂炎で腹膜炎を併発していました。手術後も高熱が下がらず、何日か死線をさまよいましたが、ようやく快方に向かいました。

大事を取るよう院長に言われ、入院は長引きましたが、妻が原稿用紙を持ってきてくれたので短編小説を1つ書き上げました。たまたま見舞いにきた友人がそれを読んで新人賞への応募をすすめてくれました。

受賞するまで7年かかりましたが、そのときにはフリーライターとして生活できるようになっていました。その4年後、直木賞を授かりました。

もし保険調査員になっていなかったら、もし腹膜炎で死線をさまよわなかったら、今の僕はなかったと思います。